悪について:E.フロム

印刷状態の悪い古い本だと ocr の誤認識が凄まじい数で発生します。
部分的には字が消えている(あるいはきちんと印刷されていない?)ため、認識することはできず全部処理するのに一日以上かかりました。

バイオフィリアとネクロフィリア

ネクロフィリアとは屍体に性的な感情を抱くことですが、この本ではそういうことではなくバイオフィリアの真逆の状態として書かれていると思います。

バイオフィリアのイメージは、

バイオフィリアの完全な現われ方は、生産的オリエンテーションに見出される。深く生を愛する人は、あらゆるところに見られる生と生長の過程に惹きつけられる。かれは停滞するよりも組立てようとする。かれは常に驚異の目をひらき、古いものに確証を見出しそれに安住するよりは、何か新しいものを発見しようとする。確からしさよりは冒険にみちた生き方をしたいと考える。かれの生に接する在り方は、機械的というよりは機能的であり、部分よりは全体を、総和よりは構造をみる。かれが形成し、影響をしたいと思うのは、愛情、理性、自らの範によってであって、力でもなく、物を寸断したり、官僚的態度で人間を物体のごとく支配することによってでもない。かれは単純な興奮よりは、生命と生命現象すべてに喜びをみいだす。

強引に他人の足を引っ張ったり、金のために人を裏切ったり、人の悪口を常に言ってみたり、そういうのがネクロフィリアということかと思います。

禁煙は何故失敗するか

私は、25年ほど前に禁煙しましたが、禁煙を決心しては挫折するということをおそらく100回以上繰り返しました。
最終的には禁煙できたのですが、相当苦労しました。
現在でも、多くの人が禁煙を決心しながら実現できないでいます。

かれは禁煙を「決心した」が、翌日は実に気分が爽快だが、翌々日は気分がひじょうに悪く、三日目には「非社交的」と思われたくないと考え、その次の日にはタバコ白書の真偽を疑い、そしてやめる「決心」はしていたのに喫煙をつづけてしまう。この種の決定は思いつき、計画、幻想以外の何ものでもない、すなわち真の選択がなされるまでは、ほとんどあるいは全く真実であるとはいえない。タバコを自分の前に置き《この》タバコを喫うか喫わないかを決定しなければならないとき、この選択は真実になる。決定を必要とするのはいつも具体的な行為である。こういう状況でいつも問題となるのは、その人が喫煙しない自由をもつかもたぬかである。

ナルチシズム

自分が嫌いな人はあまりいないと思いますが、最近のネットを見ていると度を越したナルシストがたくさんいるようです。

フロイトによれば、事実、個人の生長とは絶対的ナルチシズムから客観的な理性と他体愛へと進化する能力と定義できる。
「正常」の「成熟した」人は、自分のナルチシズムが完全に消滅してしまわずに、社会的に容認できる程度まで減少している人のことなのである。

自由

自由とは非合理的な熱情の内なる声に反抗して、理性、健康、幸福、良心の声に従う能力にほかならない。

年齢の割に元気な患者さんは、酒を飲まない人が多い感じがします。
飲むとしても本当に少量です。

私は、最近までは週3日は休肝日を作っていると自慢していましたが、そもそも飲酒をなぜするんでしょう?

それは、単なる習慣だと思っています。
そして、私は多飲することが習慣化されているので、割と飲みすぎてしまいます。
ほろ酔いがいいのに、もっと飲むともっと気分が良くなるかもしれないと飲んでしまうのですが、経験的にそうはなりません。

自由が「理性、健康、幸福、良心の声に従う能力」なのであれば、現在の私はアルコールに関してはとても不自由だということになります。

以前は、月・火・金と苦もなく禁酒できていたので、習慣飲酒をやめると決心すればできないことはないはずですが、こびり付いた習慣を「脱習慣化」するにはおそらく3ヶ月ほどかかると思います。

くよくよと考えず善を行え

年を取ると昔のことがかなりの後悔を持って思い出されます。
なんであんなことしたんだろうって。
いいこともあったはずなのに、ネガティブな思い出ばかりがよみがえります。
私は昔からこんな感じのクヨクヨ考えるタイプでした。

こういう人間にとって、この本にはなかなかいいことが書いてあります。

自分がしてしまった悪事を語り反省する人は、誰でも自分が犯した罪の深さを考える。そして人が考えるということは、そこに人が呪縛されるということ ー それも魂全体でもって人は考えることに完全に呪縛されているために、依然として、その人は悪にしばられているのである。そしてかれはきっと元へは戻り得ないだろう。なぜならかれの精神はすさみ、心は腐敗し、悲しみの気分がかれを襲うからだ。どうしたいのだ。あれこれと不潔なものをかきまわしても、不潔さには変わりはない。罪を犯そうが犯すまいが天国においてそれが何になろう。こんなことをくよくよ考えている間に、私は天国の喜びを得るために真珠に糸を通すこともできたのだ。だから次のように記されているのだ。「悪を去りて善を行なえ」と ー 悪からすっかり手を切り、くよくよと考えず善を行えと。お前は悪を犯してしまったのか。それならば、正しきを行って平衡を保て。

生産的に生きる

この本の中で最も好きなフレーズです。
以前から、ホームページの方に提示して暇があれば見ていました。

無能な者や不具者は自尊心が傷つけられたり砕かれると、その回復の手段として頼れるものはただひとつしかない。 つまり「眼には眼を」というたとえのように復讐することだけである。一方、生産的に生きている人にはそういう必要はほとんどない。 たとえ傷つけられ、侮辱され、損害を与えられても、生産的に暮している過程そのものが過去の傷を忘れさせる。生み出す能力というものは、 復讐の欲求よりも強いことがわかる。